会長夫人(渡邉妙子)逝去しました
令和5年2月4日 渡邉妙子91歳にて永眠しました。
母は昭和7年1月1日。
静岡県田方郡函南町に生まれました。
縁あって東京で姉の夫の経営する水道工事店に務めていた父と結婚しました。
日本の高度成長期の頃でしたが八人兄弟の6番目4男の父と五人兄弟の末の娘だった母です。
農家の4男だった父はそれこそ裸一貫だった父との当初の生活苦だったと聞かされていました。
父が独立し、やがて現在の地に越して水道工事指定店となり成長していくのを献身的に支え、今の株式会社ナベカンの礎を作りました。
仕事に携わりながら私と妹の二人を育て上げました。大変優しい半面、教育や躾に大変に厳しい面もありました。
学びには時間も金銭面もずいぶん無理してでも悔いの残らないように応援をしてくれた人でした。
母の教育姿勢があったからこそ、我々兄妹も無事に成長できました。
周囲から頼られる母は友人が多く、苦労の時期を乗り切った後は町会活動などの地域活動や民生員を務めました。
コーラスやダンスのほか旅行が楽しみでした。
2010年4月、父の急逝後から次第に認知症状が進行し手はいるものの、自宅で過ごしながらデイサービスに通っておりました。
2017年7月にデイサービスで転倒骨折してから、自宅での介護は難しいことから先日まで平和台アバンセにお世話になっておりました。
常々「ピンピンコロリで逝きたい」という本人の希望と裏腹に、アバンセ入所のきっかけになった方の骨折や
介護の過程で右足左足と大腿骨を骨折したり認知症進行と本人の思い通りの人生ではなかったと思います。
私がそばにいたので晩年の口癖は「今は生きるのに何の心配なくて幸せよ」でした。
コロナ禍で面会も自由にできなくなってしまい、3年ほどの間は面会もなかなかできなくて寂しかったことと思います。
尊厳死の宣言をしておりましたので過度な医療を用いる延命はいたしませんでしたが穏やかに人生を閉じました。
太陽の様に明るく周りを照らした母は、人生を全うし、この世を去りました。
死因は老衰なので本当に力尽きたという事と思います。よく頑張りました。
寂しいですが、我々家族とナベカンの発展に多大な貢献をした母とその人生をねぎらい、安らかなる時が訪れることを願っております。